2014年10月1日水曜日

聖書は自虐史観?

 本日は詩篇105篇を学んだ。「主に感謝して、御名を呼び求めよ。」との言葉で始まるこの詩篇は歴史に介入し働かれる主なる神様のみわざを覚えて感謝し、主のおきてを守れと教えるが、他の詩篇と同様に、古代イスラエルの最大救済事件出エジプトを覚える。しかし、それはモーセの時代のことのみならず、アブラハムから始まり、ヤコブの息子ヨセフの時代にも多く筆を割いている。この歴史の中には、古代イスラエルにとって苦難と思われる出来事が、幾つもあったが、全て神の民の成長のために必要な神様のご計画であったことがわかる。
 出エジプトの年代を確認しようと改めて調べてみたが、諸説ある。そして有力説について、エジプト側での文献、証言が見つからないという疑義が呈示されていることが記されていたが、興味深い発言に出会った。古代エジプトでは、国に不利な証言は残されなかったという例が多いとのこと。いつの時代も変わらないことを逆に歴史の証言不足が証拠づけていると思われた。
 こういうことと比較すると、聖書の歴史記録は真逆であることに頷かされる。北イスラエル王国、南ユダ王国の滅亡。真の神を崇めると言っている神の国の滅亡。これほどスキャンダラスなことがあるだろうか。いや、それを文に刻み、心に刻み、戒めとした人々がユダヤ教徒なのだ。
 筆者は現代のイスラエルが、聖書を遵守するユダヤ教徒とイコールでないと考えるが、歴史を生き抜くユダヤの知恵は、自らの汚点をも包み隠さず伝え学ぶ、聖書的な歴史観に支えられているものではないかと思う。それを自虐史観と呼んでもよいかもしれないが、うそを隠し、臭いものにはふたをする、そのような態度よりも、真実を伝え学ぶ態度の方が賢く、時代を生き抜く知恵を与えてくれるのは当然と思う。

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