2014年7月24日木曜日

讃美への招きと警告

 昨日は詩篇95篇を学びました。詩篇95篇からは、神讃美の詩篇が続きます。キリスト教会はよく歌う教会、よく歌う宗教ですが、それは旧約聖書の昔からの事実でした。そして、それは、いにしえから神に向き合って歩んで来た神の民が、繰り返し、神様の救いを経験したことに対する、神様への応答でした。

 1節「救いの岩」神様は、暴虐に満ちた地からノアを救い出されました。アブラハムには約束の地を与え、息子イサクを与え、ヤコブの時代には、ヨセフを通して、イスラエルの家族をききんから救い、モーセの時代には、イスラエルの民をエジプトから救い出されました。

 イスラエルの民が、再び約束の地に帰る時にも、戦いを挑む異邦人に勝利を与え、ダビデ、ソロモンの時代にイスラエルは空前絶後の繁栄を迎えます。南北王国は、悪王の悪政によって滅びますが、しかし、ダビデの家系はとだえることなく、ペルシャ王クロスによって帰還命令が発せられ、エルサレムの神殿は再建されます。真の神は救いの神、この神に向き合って、神の民は、今日に至るまで、祝福と守りを受けているのです。私たちも、この神様をほめたたえることをやめてはならない。讃美は、讃美されるべき神様にふさわしいことであり、神様の救いを受けた私たちにふさわしい、神様と向き合う姿勢なのです。

 神様が救いをなしてくださったから、その歌は感謝の歌です。その救いは、すばらしい救いですから、私たちは神様を讃美します。聖書は人の罪深さ、この世のはかなさを鋭く見つめますが、それに終わりません。罪深い私たちを救って、永遠のいのちに入れてくださる恵みの神様の恵み深さを覚える。神様がおられ、私たちを救ってくださることを知っている私たちは、喜び歌う理由があるのです。そして今日も私たちは、沢山の恵みに囲まれて、幸いな人生を生かされているではありませんか。それを当たり前と思うのではなく、神様に感謝することを忘れないものでありたいのです。

 世の中には、様々な宗教があり、人々は様々な神々をまつっている。しかし、聖書の神様は、全てのものを造られた創造主なる唯一の神様でした。他のいかなるものに置き換えることのできない、目に見えない、天におられる神様でした。すべての神々にまさって、大いなる王。私たちは、この天の神様を、他のものと同じように見てはならないのです。

 現在知られている海溝で最も深い地点は、マリアナ海溝のチャレンジャー海淵と呼ばれる場所です。最新の計測では、水面下1万9百11メートル。エベレストをひっくり返しても山頂が底につかないほどの深さを持った海溝が、日本の南、フィリピンの東側に存在していることがわかっています。しかし、このような深海は、大水圧に阻まれて、21世紀の今日でも、深海探査は容易ではなく、深海のほとんどは未踏の領域のまま、存在しています。人知の及ばざる場所。しかし、天の神様は、すべてを支配しておられる。

 その主なる神様が、地上の住み良い場所に、私たちを生かしてくださっているということは何という不思議でしょうか。そして、それは恵み深いことなのです。ですから、私たちは、創造主なる神様、私たちを生かしておられる神様の御前にひれ伏すことがふさわしいのです。

 この途方もなく偉大な神様が、しかし、私たちに向き合ってくださる。羊飼いのように優しく、力強く導いてくださる。驚くべきことです。私たちは、恐るべき神様に畏敬の念を覚えつつも、その愛のゆえに、親しくよびかけることができる。しかし、それゆえに、詩篇は、讃美から警告へ進みます。途方もなく、偉大な神様が、私たちを愛をもって導いてくださるなら、私たちは心をかたくなにしてはならない、のです。神様の前に、柔からな心をもって、歩まなくてはならないのです。

 メリバでの出来事は、出エジプト記17章、民数記20章に記されています。イスラエルの民は、出エジプトという神様の偉大なみわざを体験し、目撃したにも関わらず、荒野の旅路が始まると、飲み水をくださいと言って、モーセに食ってかかった。人間の愚かさが剥き出しにされました。大いなる救いを体験しても、次の瞬間には別の試練の中で、すぐに不信仰に陥ってしまう。こういうことではいけない、と詩篇は警告しているのです。メリバとは争い、という意味。イスラエルの民がモーセと争い、神様と争ったことの愚かな記録でした。そして、マサは試みという意味。「主は私たちの中におられるのか、おられないのか」と言って主を試みた、その過ちの記憶でした。私たちは、主がおられると信ずべきなのです。

 「わたしのわざを見ておりながら」という言葉が重要です。イスラエルの民は、十の災いをもってエジプトを打った主なる神様のみわざを知っていました。最後には海を分けて彼らを渡らせ、海を閉じてエジプトの軍勢を滅ぼした神様のみわざを見ていました。また私たちはさらにすばらしい、すべての人を罪と死の滅びから救い出すイエス・キリストの十字架のみわざを知らされながら、神様を疑い、試すようなものになってはならないということです。

 彼らは、せっかくエジプトを出たというのに、約束の地には入れないものとなってしまったのでした。40年荒野をさすらった。徒歩の旅といえども、まっすぐに約束の地を目指したなら、一週間ほどでたどり着ける場所でした。不信仰という罪が、私たちにどれほどの無駄足を踏ませるのか、学び取り、神様に信頼することの賢さを知るものとさせていただきましょう。

 神様が、イスラエルの民を、約束の地に入らせなかったというよりは、むしろ、彼らが自ら迷い道を選んだと言った方が良いでしょう。それが不信仰の罪なのです。神様がこっちだというのに、そっちへ行かない愚かさです。

 その不信仰から守られるために、私たちは神様を讃美し、礼拝し続けなくてはならないのです。讃美は信仰告白です。神様は信頼に足るお方、すべてにまさる方と歌いつつ、私たちの信仰は守られるのです。そう思えないならば、そう思えない時ほど、私たちは歌わなくてはなりません。

 地の深みは主の御手のうちにあり、山々のいただきも主のものである。


 私たちの知らないことまでもすべてを御心のうちに支配しておられる真の神様が、わたしの羊飼いとなってくださる、今日も導いておられる、そのことを信じ、感謝し、そして、永遠のいのち、天の御国を目指して歩むものとさせていただきましょう。お祈りいたします。

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