2014年7月16日水曜日

現実の悪に直面した時の祈り

祈祷会7月16日

 メッセージの前には、教会福音讃美歌491番「この世はみな」を歌いました。


詩篇94篇

 詩篇94篇は激しい怒りの思いの込められた詩篇です。こういう祈りがあるのかと驚く人もいるでしょう。しかし、それが祈りであるということが重要です。怒りのままにこぶしを振り上げ、人を打ちのめすのではないのです。怒りをぶちまけるのではなく、むしろ内に秘め、神様にさばきを委ねるのです。これが信仰の在り方でした。神の御前での祈りは、本当に自分の怒りが正しいのかと思いめぐらすことにもつながるでしょう。と同時に、この世にはしばしの悪のはびこりが許されているので、私たちは悪に直面し、聖なる憤りを心のうちに覚え、神様に切に祈らなければならない、そのような霊的な必要もあるのです。悪に直面したときに、どのように祈るか。それが詩篇94篇の教えるところです。

 復讐の神。私たちは「神は愛なり」赦す方を教えられていますが、同時に、正義の神は、悪をさばく神であり、罪無き人を殺すような、そのような悪に対して、必ず報復されるお方なのです。「光を放ってください。」神様の光は、真実を照らす光、そして、正しいことと悪いことを峻別する光。それはさばきの光でもあるのです。

 高ぶる者は悪。私たちは、へりくだるものとさせていただきましょう。

 義憤にかられて高慢になってはなりません。私たちが裁くのではなく、神様が正しい裁きを行われるのです。ですからむしろ私たちは、へりくだって祈り、神様に、報復してください、と祈るのです。

 3節には「いつまで、いつまで」と言葉が繰り返されていますが、私たちは、時の流れの中で、忍耐すべきであると聖書は繰り返し方っています。しばらくは悪がはびこることが許されている。これが現実です。すべてを支配しておられる神様のご計画でもある。しかし、最期には必ず神様の正しい裁きがなされると神様は言っておられる。ならば、わたくしたちは、神様を疑うのではなく、忍耐を働かせて「いつまで、いつまで」と祈るのです。これは疑いではなく、しばらくの間、このように祈り続けなければならないということです。祈らなければ私たちは失望に陥ります。しかし、祈りは、忍耐と希望を助けるのです。悪者どもは、しばしの間、勝ち誇っている、そういうものだ。しかし、それは、いつまでものことではないのです。

 放言、横柄、自慢。いつの時代にも、世の中に法があるというのに、それを勝手に解釈し、法を乗り越えて、わがままな思いのままに行動する人々がいるのです。その言葉の愚かさに、はらわたがにえくりかえることがある。神を信じる者は、その悪を祈りのうちに神様に訴えるべきです。

 5節の「あなたの民」が誰であるか。これは重要な問題です。

 民族、人種の問題ではないでしょう。そうではなく、神の言葉に従うものこそ神の民です。神様は一番大切な教えは何であると言われたか。神を愛し、隣人を愛することです。もう世界中、あちこちで火の手が上がっていますが、その言い分は、相手が悪い、報復するのは当然だという言葉、子どもの喧嘩と同じことが、しかし、いっそうたちの悪い方法で、行われています。しばらくの間、神のことばに従う神の民は、悩まざるを得ないときを過ごすのです。結論を性急に求めず、祈って答えを神に委ねるからです。しかし、それが正しい手段なのです。

 聖書は、誰が悪者か、見分ける手段も一貫して教えています。6節を見ればわかります。

 弱者を虐げるもの。これが悪者のしるしです。

 7節のうそぶいている言葉。実は、悪者は、神様の存在を知っているのですが、耳をふさぎ目をふさいで悪を行い続けるのです。しかし、その言葉、心の思いは、真実に目を向けない、偽りなのです。嘘の言葉に騙されてはいけません。またその嘘がしばらく真実のように見えたとしても、やがて化けの皮は剥がれるのです。

 詩篇の時代、民の中に悪者がいたということはやはり神の民が人種、民族のことでないことを教えているでしょう。神のことばに従って、愛を行い、正義を行っているかどうか。それが重要です。

 そして一時、世をはばかり、己の意のままに世の中を動かしているように見える悪者は、じつはまぬけで愚かなのです。何を知らない愚か者なのか。

 私たち、人間に耳、目を与えた神が、聞いていないわけはない。見ていないわけがない。あなたの耳を聞こえているなら、神は、もっとよく聞いているだろう。あなたの目が見えているなら、神はもっとよく見ているだろう。信じる者は、神様が何もかもすべてご存知であるということに平安を持つことができるでしょう。神様が見過ごしにしている悪はないのです。

 さらに、この神様は、国々を戒めるお方でもある。

 国家権力というものも、神様が人間に恵みとして与えておられるものです。政府があり、行政があり、人々の暮らしは秩序の中で、守られる。しかし、その政府が暴走するとき、神様の御旨を超えるとき、神様は戒められる。人の知識もすべて神様が人に与えてくださったものであり、神様こそ、人の知識を超えて、知恵をもっておられる方ですから、何の裁きも行われないかのように、我が物顔で暴走し続けることはできないのです。

 そして、23節ある詩篇の中心12節に、神に祈る人の幸いが輝きます。

12節「主よ。なんと幸いなことでしょう。
    あなたに、戒められ、
    あなたのみおしえを教えられる、その人は。」

 まさに、神のことばを聴き、それを行うものが幸い、その人こそ、まことの神の民、その心の平安は揺るがないのです。

 13節は幸いな人と不幸な人の対比です。

 幸いな人は、わざわいにあっても、心に平安がある。しかし、悪者は、世をはばかっているように見えて、悪を行い続ける限り、墓穴を掘り続けているのだということです。むしろ私たちはそのような人たちのためにも、最終的に神のさばきを受けて永遠の滅びに陥るような惨めなことにならないように、神様憐れんでください。と祈ることができるでしょう。

 そして、神の声に聞き従う民は幸いなのです。

 正義が行われる日を待ち望み、忍耐を働かせるものには希望があるのです。

 その確信は、祈りの中で、強められるのです。

 歌には修辞の技巧が凝らされます。

 だれがだれが、もしももしも、と繰り返されます。

 どんなリズム、どんなメロディーで歌われたことでしょうか。興味深いですが、当時の音楽を知ることはできません。機会があれば音楽をつけてみるのも良いでしょうがたい、今日は、この詩が何を強調しているかに注目しましょう。だれがだれが、もしももしも、という繰り返しの中で、詩人が言わんとしていることは、何か。

 主が私の助けであるということです。主の恵みが私をささえてくださいますように、という祈りです。確信を持つだけでなく、祈りつつ過ごすということが教えられています。

 私たちが人間である限り、絶えず、思い煩いはやってくるのです。焦燥感が生じる。だから私たちは祈らなければなりません。自分の言葉で祈れないなら、詩篇を開いて、神の言葉に教えられてそのままに祈る。詩篇はやはり祈りの手本です。そして、実際に、祈るとき、静かにたましいの喜びが心を満たすようになるのです。

 正義を行うはずの法廷が、悪をたくらむような状況すら、詩篇は想定しています。そんなことになったら、どこに正義があるだろうかと私たちは絶望するかもしれませんが、神様はそこにおられない。真の正義の高みにいまして、悪を行う法廷に対してもさばきをくだされるから、私たちは希望と平安を持つことができるのです。

 詩篇94篇が描く悪の法廷は、イエス・キリストの時代に実現しました。ユダヤの議会はこぞってイエス様を死刑にしようと話し合い決断したのです。しかし滅んだのはユダヤ。40年しないうちに、エルサレムは徹底的に破壊されることになります。

 祈りの言葉を一回となえて確信が得られなければ、もう一度、唱えます。

 滅ぼされる側の悪にならないように、また悪に加担にしないように。


 しばしの忍耐を求められる側になったとしても、神の御心を行い、神様に支えていただくものとさせていただきましょう。

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