2014年7月2日水曜日

主に感謝することは、良いことです。

 詩篇92篇は安息日のための歌。旧約聖書の神の民は、天地創造の神様のみわざを覚え、7日目に休まれた神様に習って、土曜日は休息の日、安息の日として、すべての仕事を休み、神を礼拝する日としました。他方、新約聖書では、イエス様が十字架に架かって、私たちの罪の贖いを成し遂げ、三日目によみがえって、永遠のいのちの希望の初穂となられたので、救いのみわざの成就を記念して、日曜日が安息日となりました。いずれにせよ、神様のなしてくださったみわざを覚えて感謝し、自分の仕事をひとまずわきに置いて神様を礼拝する、これが安息日です。

 一週間の間で、自分の為したこと、人の為したことに目を向けるなら、そこには成功もあれば失敗もある、喜びもあれば、悲しみや怒りもあるかもしれません。色々なことが起こります。

 しかし、信仰者は、変わらない神様に目を向けることができる。目に見える世界の向こうに、目に見えない真実な神様がおられることを知って感謝できるから幸いなものなのです。その幸いを忘れてしまわないように。週に一度、私たちの創造者なる神様に向き合う。私たちの救い主なるイエス様に感謝をささげる、そのようにしてたましいの健康を保つものとさせていただきましょう。感謝や讃美は、もちろん、何か感謝すべきことがあったときには、心から感謝をささげるべきですが、自分の感情によることではなく、むしろ意志的に、常に感謝をささげる、その姿勢が、さらなる感謝を呼び込む幸いな人の人生になっていくのです。

 また感謝、讃美をささげるのは、週に一度きりでありませんでした。聖書の中の信仰者は、日に三度、神に祈りをささげる、これが習慣でした。

 私たちも、食前の祈りをかかすことがなければ、日に三度神様に祈りをささげることができます。

 朝昼晩と食べる物が充分に与えられている生活も、決して当たり前のことではありません。地震が来て、津波が来て、電気がとだえ、物流も止まったなら、たちまち買い占めが起きる、人間の生活は、決して万全なものではないのです。しかし、今日は、幸いな生活が守られている。ならば、感謝。もし欠けがあるなら、なおのこと、神様に祈りつつ、求めつつ、生きるものとさせていただきましょう。不平、不満ではなく、祈りを。そして、神様に信頼するなら、私たちは神様と共に生きていくことができるでしょう。

 少年の頃、立琴の名手であったダビデのことが思い起こされます。彼は羊飼いの仕事をしている時も、立琴を奏でながら働いていました。時には、悩み苦しむサウル王のたましいをなだめるためにも、彼の音楽の才能は有効なものでした。人のたましいは、悩み苦しみ、妬みや怒りに支配されることがあるのですが、音楽の調べは、そのたましいの苛立ち、悶えを、やわらげることができるのです。感謝できない、讃美出来ないではなく、感謝する時、讃美する時、私たちの心が、悪い状態から守られ、明るい状態に変えられていくのです。

 私たちは神様のしてくださった良いことを忘れがちなものですから、思い出して、神様を讃美すべきです。

 人生の様々なことを経験すると、神様のご計画の深さが、少しづつわかってゆくでしょう。初めは、なぜこのようなことが、と戸惑うだけの経験だったことにも、意味があったことを教えられる。そのようにして、神様の御計画が、実に深い意味のある計画だったということを知らされていく。確かに初心者には分からないことが、年数を経るとわかるようになっていく、そういうことがあるものです。

 そして今日の詩篇は、讃美の詩篇であると同時に、教訓の詩篇でもあります。

 感謝すること、讃美することが、人をどれほど幸いな人生に導くだろうか。しかし、愚かな人は、感謝、讃美が少なく、感謝、讃美が少ないと、実際に、感謝できること、神様を讃美できることが減っていくのです。悪循環です。

 神様は、悪者でも青草のようにもえいでることを許してくださるのです。栄えるチャンスも与えてくれるのです。しかし、愚か者は、その時に感謝することがない。神の御名を崇めることを忘れている。すると、彼が手にしたものは、指の間をすり抜けて、落ちて行く砂のようになってしまうのです。いつも感謝。感謝なことがあったら、なお感謝。そのような人生が賢い人の人生なのです。

 天には愛と正義の神様がおられることを仰ぎ見て生きる。

 どれだけ不法がはびこっても、神様は、それを放置されることはない。そう信ずべきです。

 そして、正しい人は決してないがしろにされない。

 現実に、滅びるものと神様からの祝福を受けるものの、二つの道があるのです。私たちは、誰もが平等に同じ結末に到達すると考えるべきではありません。救いはすべての人に開かれています。しかし、そこに入るか入らないかは、自分自身の選択です。

 老いてもなお実を実らせる。年を取るといろいろなことが思うようにいかなくなる現実にも直面するでしょう。しかし、神様と共に歩むなら、年老いて実る実を知ることにもなるのです。人生、どこまでも期待をもって歩んで良いのです。年とって悪いことばかりでない。


 今までを導いてくださった神様が、これからも、永遠に私たちを導き祝してくださることに期待を置いて、歩む者とさせていただきましょう。

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