2014年6月25日水曜日

詩篇91篇

 前回の詩篇90篇は、人の命のはかなさを歌った詩篇、人生のむなしさの中で、神様の助けを祈り求める、神の人モーセの晩年の祈りでした。それとは対照的に、詩篇91篇は、神を見上げて天に舞い上がるような詩篇です。人間は小さくて乏しい存在、しかし、神を見上げる信仰によって私たちは信仰による力強さを得るのです。

 いと高き方、天にいます神様を、隠れ場とする者は、全能者、すなわち、どんなことでもおできになる方の陰にいるのだ。私たちが、イエス・キリストの御名によって祈るとき、それはどれほど力強い方を頼りにすることかと思い出さなくてはなりません。私たちの祈りの声は小さいかもしれませんが、それを聞いておられる方は、恐るべき力をもったお方、人の思いを遥かに超えた知恵をもっておられるお方なのです。この神様が私たちの祈りを聞いて、最善をなしてくださるということは、どんなの素晴らしいことでしょうか。

 狩人のわな、それは、獲物の予想もしないところに、仕掛けられている。私たちの人生も、サタンは、おもいがけないところに霊的なわなを仕掛けているので、私たちは、私たちの想像の及ばない所に、神様の助けを求める必要があるのです。恐ろしい疫病。はやり病いは、昔も今も、人をおびえさせるものでした。不思議なことですが、ある病いが医学によって克服されると、また別の新しい病気が登場して来る。しかし、神様は、その病いからも私たちを守ってくださるというのです。

 きじが、子育てのころ、親鳥がこどもたちを連れて歩いていました。そこに出くわした時に、親鳥がひなをかばうように、荒々しく翼を広げてひなたちをかばおうとした姿には驚かされました。主の羽はどのような羽でしょうか。高い空をゆうゆうとすべる大鷲の羽のようでしょうか。神様の優しく力強い翼の下に、信じる私たちは身を避けることができる。

 主の真実は大盾である。大きな盾なので、私たちの身をすっぽり隠して、飛び来る矢から守ってくれる。主なる神様が偽りを言われない、言われたことは、必ず実行されるお方であるということは、なんと感謝なことでしょうか。

 聖書の時代は電気のない時代。夜の暗やみはどれほど暗かったことでしょうか。それで人は火を用い、明かりをともすのです。しかし、火がなくても、あかりがなくても、電気がなくても、神様が守ってくださる、そのことに信仰者は平安を得るのです。戦人ダビデは、戦火を何度もかいくぐった人生でした。飛び来る矢で倒れる人々を何人も見たことでしょう。しかし、彼は生き延びたのです。神様が守ってくださったことを何度感謝したことでしょう。そして、私たちも、今日、守られて、生かされているのです。 

 また神様の前にいつも罪を悔い改め、自分の問題が処理してあるなら、私たちは、恐れる必要はないのです。愛には恐れがありません。結婚式のおりに、ヨハネの手紙で学んだとおりです。

 主なる神様がその本性として愛を第一にもっておられるということは、何と感謝なことでしょうか。その愛のうちに、私たちを匿ってくださる、力強く、真実で変わることのない愛です。

 すんでのところで、天使のようなものがあらわれて、救われたという話しをたびたび聞くことがあります。それを信じるか信じないかは、人それぞれですが、聖書は、御使いが神様の命令を受けて、信じるものを守るようにされると言う。私たちは、天使の守りを信じてよいのです。

 年をとるとやたらとタンスの角に足をぶつけたり、あざがなかなか消えなかったりするものですから、わたしたちは、神様に祈りつつ生きて行く必要があるでしょう。

 年老いて弱ったライオンではありません。人生のさかりとばかりに力を振るう若獅子。かみつけば、猛毒をもっているコブラ。そして蛇という言葉からはサタンも連想されるでしょうが、それを踏みつけることができるのがアダムの子孫なのです。どちらも動物園で見ることができるということは、ある意味、聖書の真実を証明しているのかもしれません。だからといって人間がおごりたかぶってはなりませんが。

 信じる祈りは、やがて、神ご自身の言葉を聞く祈りと変えられていきます。

 信仰者にも苦しみはあります。苦難の時が訪れます。そのような時こそ、詩篇91篇のような祈りをもって神様の助けを仰ぐ必要があります。そして、14節、15節のように語ってくださる神様を信じる信仰を働かせるのです。

 いのちを与えてくださった神様は、私たちの命が無為に終わることを望まれず、生かされてある限り、幸いであることを望んでくださるでしょう。


 そして、生涯の終わりには、天の御国を見せてくださる。その日にも希望を置きつつ、今日の神様の守りを確信して生きるものとさせていただきましょう。お祈りいたします。

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