2014年5月21日水曜日

私は悩み、そして貧しいのです。

 今日は詩篇86篇を学びました。コラの子たちの詩篇にはさまれて、なぜポツネンとこれだけ「ダビデの祈り」と紹介されているのか。それだけ、王の中の王、英雄の中の英雄、ダビデがどのような祈りの人であったのか興味をそそられる箇所ですが、意外に意外。1節で「私は悩み、貧しいのです。」と心情が吐露される。これが巨人ゴリアテを倒した勇敢なダビデなのかと思う人もいるでしょうが、むしろそうなのです。神の前で、祈りの中で、自分の弱さを正直に告白し、神様により頼む者こそ、勇気ある行動ができる。そのことをこの詩篇は教えているのです。

2014年5月14日水曜日

怒っておられるのか、怒っておられないのか。

 詩篇85篇は、怒りが去ったということと、御怒りをやめてください、という二つのことが歌われているので、いったい詩人はどのような状況にいるのかと、一瞬戸惑ってしまうのですが、ある怒りは去った、しかし、違う怒りは残っている、そういう状況であろうと推測されます。
 これこそ、私たちの現実ではないでしょうか。神様は、すべてを滅ぼされなかった。しかし、このままで大変まずいことになるのではないか。
 そんな時に、結局、神を信じても、何の意味のないのではないかという思いが頭をもたげてきそうになります。しかし、詩人は「神の仰せを聞きたい。」と願います。
 混沌とした状況の中で、繰り返される過ちを脱出するために、神の言葉こそたよりだと言うのです。
 また、神を恐れる人が救いに近いといいます。人を恐れたり、未来の状況を恐れることは、救いに近くないのです。
 そして麗しい光景を信じて見つめます。恵みとまことの出会う所、義と平和がくちづけする瞬間。そんな時がやってくるだろうかと失望してしまうような時こそ、憐れみ深い神様は、そのような未来を必ずもたらしてくださる、そう信じて祈ることが大切ではないでしょうか。
 

2014年5月7日水曜日

最も優美なる詩篇

 今日は詩篇84篇を学びました。指揮者のために。ギテトの調べに合わせて。コラの子たちの賛歌。
 この詩篇を英国の説教家スポルジョンをして「平穏なる詩篇のうちでも最も優美な詩篇」と言わしめた、確かに美しい詩篇です。しかし、それはきらびやかな言葉が散りばめられて優美なのではなく、その言葉に迸り出る詩人の神への愛慕、礼拝への篤い願いが、比肩するものの見当たらない美しさになっていると言えるでしょう。また単に美しいだけでなく、悪をしりぞけ正しく歩むことの尊さにも目を留めています。
 「私は悪の天幕に住むよりは
  むしろ神の宮の門口に立ちたいのです。」
 「主は恵みと栄光を授け、
  正しく歩む者たちに、良いものを拒まれません。」
 天幕の門口を守るものとなり、後には神殿の門衛に任ぜられたコラの子孫らしい告白と言えるでしょう。彼らの父コラは、モーセとアロンに逆らい、神に逆らって厳しいさばきを身に招いた人物でした。しかし、神様は恵み深くその子孫には尊い務めを与えて栄えさせてくださっていたのです。
 父のようにアロンの聖職を求めたりしない。自分たちは自分たちであたわった職務に満足し、神から良いものを受けるのだ、あたわった分に満足するそういう信仰でしょう。
 へりくだった心から滲み出る、神への熱心な求めの祈り。そのような祈りをささげて、神と共に歩むことを喜ぶものとさせていただきたいのです。

2014年5月5日月曜日

おことばをいただかせてください。

 昨日はルカの7章より百人隊長の信仰を学びました。しもべの病いのために、イエス様を呼ぼうとした彼は、しかし、途中、何かに気付いたのか、わざわざおいでくださいませんようにと友人たちを通してイエス様に語ります。イエス様のおことばだけいただければ、しもべは治ると信じたからでした。
 その信仰をイエス様は賞賛し、しもべの病いは癒されます。
 今回は、この福音書の最初の読者がテオピロ殿であったということに触れました。ルカが手紙を通してイエス様のことを伝えようとした人物。テオピロにとっても信仰のてかがりはイエス様のことを伝えるルカの言葉でした。
 しかし真理のことばには力があるのです。聖書のことば、神のことばには力があるのです。ことばだけいただければ十分。
 この信仰をもって、日々、神のことばに傾聴し、自分の力としていきたい、そう思わされたことでした。