2013年7月11日木曜日

王の婚礼

詩篇45篇で詩人は王の婚礼をたたえて歌います。麗しい王の姿、それは「くちびるから優しさが流れ出る」様だと言います。イスラエルには減税を願う民を恫喝して、国を分裂においやる愚かな王がいました。しかし、一方で恵まれない者に憐れみを施す賢い王がいました。神からの祝福をしっかりと受け取っている王は、寛大なのです。高い地位にいるからということで、居丈高に振る舞わないのです。そして剣を身に帯び、威光に輝いている。しかし、その威光は「真理と柔和と義のため」でした。イスラエルの王はあくまで正義に立つことが重んじられていた。指導者が正義を重んじている、これはその国に住む者の幸不幸を分ける問題です。6節、7節は理解の難しい所がありますが、王が神に喜ばれてこそ、神の示す公正を重んじてこそ、王としての職務を果たしうることを歌っているのでしょう。詩人はさらに嗅覚、視覚、聴覚に訴えるシンボルを用いて、王を讃え、焦点を王妃に移していきます。王の婚礼において王の右に立つ王妃、どれほどの美しさであったことでしょうか。しかし詩人は美しさをたたえる前に、11節の教訓を伝えるのです。あなたの夫である王の前にひれ伏すなら、王はあなたの美を慕う、と。古代イスラエルにおいて、花嫁と花婿の関係は神と神の民との関係をあらわすものでした。そしてキリスト教会においては、キリストと教会の関係をあらわすもの。神の民が神の御前にひれ伏してこそ、民は神の愛顧をふんだんに受け、祝福されるのだということです。12節、異国の民も、国内の有力者も、王に愛される王妃におもねります。美しい衣装に身をまとった王妃は、喜ばしく王宮へ進んで行きます。結びは、王家の祝される様。この詩篇が42篇から続く試練の詩篇の後にあることが印象的です。神の民は試練の中で苦しみ祈るだけでない。やがて神とお会いする神の民であり、真の花婿の花嫁として、美しく飾られる日が来るのだとの幻、教えているのです。キリストの花嫁、教会もまた、この幸いな日を、いつか迎えるものなのです。

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