2013年7月29日月曜日

最後の災いの予告

昨日は「最後の災いの予告」と題して、出エジプト記11章から学びました。主なる神様はこれまでに九つの災害をもってエジプトを打ちましたが、パロは心を頑にしイスラエルの民を解放しようとしません。しかし、この繰り返しも終わりの時が近づいていました。理由無くイスラエルの民を苦しめたパロ。悔い改めることなく、神に逆らい続けたパロにさばきがくだされる時がもうそこまで近づいていました。神様は、悪を行うパロをそのままに放っておかれる方ではないのです。地に正義を行われるお方なのです。また不思議にもイスラエルの民はエジプトにあってエジプトの民から好意を持たれていました。モーセもまた尊敬されていたと聖書は語ります。そして最後の災いにおいては家臣たちはもはやパロに嘆願せず、直接モーセに語りかけることになると言います。パロは人々の尊敬すら失い、徹底的に打ちのめされることになります。悪を放っておかれない神様、地に正義を実行される神様のことを知って、この神様に祝福される生き方を選びとりたいものです。

2013年7月11日木曜日

王の婚礼

詩篇45篇で詩人は王の婚礼をたたえて歌います。麗しい王の姿、それは「くちびるから優しさが流れ出る」様だと言います。イスラエルには減税を願う民を恫喝して、国を分裂においやる愚かな王がいました。しかし、一方で恵まれない者に憐れみを施す賢い王がいました。神からの祝福をしっかりと受け取っている王は、寛大なのです。高い地位にいるからということで、居丈高に振る舞わないのです。そして剣を身に帯び、威光に輝いている。しかし、その威光は「真理と柔和と義のため」でした。イスラエルの王はあくまで正義に立つことが重んじられていた。指導者が正義を重んじている、これはその国に住む者の幸不幸を分ける問題です。6節、7節は理解の難しい所がありますが、王が神に喜ばれてこそ、神の示す公正を重んじてこそ、王としての職務を果たしうることを歌っているのでしょう。詩人はさらに嗅覚、視覚、聴覚に訴えるシンボルを用いて、王を讃え、焦点を王妃に移していきます。王の婚礼において王の右に立つ王妃、どれほどの美しさであったことでしょうか。しかし詩人は美しさをたたえる前に、11節の教訓を伝えるのです。あなたの夫である王の前にひれ伏すなら、王はあなたの美を慕う、と。古代イスラエルにおいて、花嫁と花婿の関係は神と神の民との関係をあらわすものでした。そしてキリスト教会においては、キリストと教会の関係をあらわすもの。神の民が神の御前にひれ伏してこそ、民は神の愛顧をふんだんに受け、祝福されるのだということです。12節、異国の民も、国内の有力者も、王に愛される王妃におもねります。美しい衣装に身をまとった王妃は、喜ばしく王宮へ進んで行きます。結びは、王家の祝される様。この詩篇が42篇から続く試練の詩篇の後にあることが印象的です。神の民は試練の中で苦しみ祈るだけでない。やがて神とお会いする神の民であり、真の花婿の花嫁として、美しく飾られる日が来るのだとの幻、教えているのです。キリストの花嫁、教会もまた、この幸いな日を、いつか迎えるものなのです。