2013年6月20日木曜日

鹿が谷川の流れを慕いあえぐように

昨日は詩篇42篇を学びました。この詩篇は何らかのかたちで公の礼拝に出る事が妨げられている信仰者の神との交わりへの渇望を謳った詩篇です。神の御前に出ることができない、人からの罵りがある。しかし、彼は信仰を弱らせるのではなく、かつての礼拝の喜びを思い出して、自分のたましいを叱咤激励するのです。6節から、詩人の訴えは、一層、激しさを増し、神からの隔たりを、ヘルモンの地になぞらえ、雪解けの濁流が、自分を飲み尽くそうとしている、今の試練に押し流されそうな自分を、神に訴えるのでした。8節のみがこの暗闇の詩篇に一筋の光明を投げかけています。「昼には、主が恵みを施し、夜には、その歌が私とともにあります。」思い起こせば、昔も今も、主の恵みを数えることができる。恵みを数えれば、感謝の歌が生まれて来る。しかしだからこそ今の不自由を詩人は神に訴えずにはおれないのです。9節、10節で心情の吐露は最も深い地点に到達します。敵の罵りは「私の骨々が打ち砕かれるほど」身体の奥まで痛みが到達するほどの痛みを彼にもたらすものでした。しかし、心情の吐露は、祈りの終焉を導きます。ほぼ5節に等しい自分のたましいへのよびかけが繰り返され、祈りは終わっていきます。ただし5節の結びは「御顔の救いを。」となっていたものが、11節の結びでは「私の顔の救い、私の神を。」となっています。神が御顔を見せて救ってくださる。この神が御顔を見せてくださる時、私の顔と、顔を相まみえさせて、親密な交わりを回復して下さる、これが詩人の待望した救いでした。旧約聖書において、モーセは神との親密な交わりを持ったと言われています。新約聖書において、主イエス・キリストの来臨の時には、私たちは顔と顔を合わせてまみえると言われています。信じる者と親密な交わりを持ってくださるキリスト、この方にやがてお会いする日が来る事を待望して、今日を生きるものとさせていただきましょう。

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