2012年10月31日水曜日

ウザの割り込み

今日は第二サムエル記6章から、契約の箱をダビデの町に運び込む様子を学んだ。ひっくり返りそうになった箱を押さえたウザが主の怒りをかって即死する場面は、説教後の話し合いでたいへんな話題となった。なかなか理解しがたい。しかしそれまで契約の箱をあずかっていた祭司の息子であるなら、どのような取扱が正しいのか、知らなかったはずはない。聖書は契約の箱、神の臨在に対して、人がどのような姿勢を取るか、一貫して語り続けている。神は神であって、人間の都合のいいように解釈できるお方ではない。畏敬の念、崇め礼拝すべきお方であるという秩序を考えさせられる。と同時に、恐れるだけのお方でもない。そこに神様が共におられるなら、祝福は確かに存在する。私たちは、恐れつつ、喜ぶべきでもある。ちからの限り、歌い、踊った、ダビデ、イスラエルの人々のように、私たちは神の共におられることを心底喜び礼拝をささげているだろうかと問われた。イエス・キリストの贖いのゆえに、信じる者と共にいてくださると約束しておられる神様の臨在は、ちからの限り喜ぶべきことなのだ。

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