2012年9月12日水曜日

苦しい時の神頼み

苦しい時の神頼み、という言葉があります。私は牧師として、苦しい時の神頼みでもいいんです。神を求めてくだされば、と話すようにしています。どんな出会いでも真の神様に出会うきっかけになれば、それで良いからです。しかし今日学んだサムエル記第一の28章には、苦しい時の神頼みではダメな悪いケースを教えられます。ペリシテとイスラエルの戦いで怖じ気づいたサウル王は、主なる神様に伺いをたてます。しかし、主からの答えがないと、即座に霊媒による託宣を求めたのでした。イスラエルは律法によってあらゆる偶像礼拝、占い、霊媒が禁じられている国です。その種のオカルトは、人間をだまし滅びに招くからです。その国王が霊媒を求めたのでした。自分の思いのままに超自然の助けを求めたのでした。現れたのはすでに地上を去った預言者サムエル。彼は、サウルの罪を指摘し、それゆえに主の祝福がサウルを去ったこと、この後、息子ヨナタンと共に、ペリシテの手にかかって死ぬことをサウルに伝えたのでした。

サウルのすべきことは何だったのか。それはかつて主の御声に聞き従わなかった罪を、心から悔い改めて、神に立ち返ることでした。しかし、サウルのやっていることは、いつもその場しのぎのうわべだけの振る舞いなのです。真心からの悔い改め、神への立ち返りのないサウルの信仰生活は、神との真摯な交わりを欠くものでした。それが求めて得られないとすぐ別へ行くという行動にあらわれています。主の答えがないなら、なぜないのか、主の答えがないというのは、それ自体もっとも正しい主の答えを意味している場合があるのです。真の信仰者は、どこまでも、真の神に助けを求めるべきであり、神の御心はどこにあるのか思いめぐらすべきです。なぜなら本当に頼りになるのは唯一の神お一人であり、また世界はすべて神様の御心のままに動いて行くのですから、この神様を見上げると、自分のなすべき最善のことも見えてくるものだからです。

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