2012年3月28日水曜日

詩篇32

本日の聖書の学びでは詩篇32を学びました。ダビデのマスキールとサブタイトルがついています。マスキールとは一説によると教訓、それも失敗から学んだ教訓との意味が考えられるそうです。確かに詩人が罪を犯して、神の赦しを経験したこと、そのたましいの真実が描かれています。罪を犯した人、過ちを犯した人は、その罪を償わなくてはなりません。それが地上の世界の現実です。しかし、聖書はそれだけが人間の全てであるとは言わないのです。人間がたましいを持った存在であり、罪を犯して汚れたたましいは、しかるべき浄めを必要としている。自分が赦すのでない、人が赦すのでもない、神が赦してくださる、そのために必要なこと、プロセスを教えています。罪過ちがあるのに、それを認めないことは、自分を欺くことになります。浄めに到達することはありません。神様は人間が自分を欺くことのないように、罪を犯せば痛みを感じる良心をすべての人に与えておられます。そして良心は体をむしばむほどに、私たちの心に訴えるのです。それで詩人は耐えかねるように神の前に認罪する過程へと進みました。すると全く不思議なことに神の赦しが詩人のたましいに訪れるのです。いや不思議ではないでしょう。聖書は一貫して真心から罪を悔い改めて告白する人を、神は赦すと伝えているのです。「それゆえ聖徒はみなあなたに祈ります。」クリスチャンは、罪を犯さないから聖徒なのではありません。罪を犯すけれども、神に赦され清めていただくことを知っているから祈り続ける信仰者なのです。私たちが注意しなくてはならないのは、悟りのないもののようになってはならないこと。過ちを指摘されたのに、私には罪はないと硬い心になってしまわないこと。清い神との心の交わりを保ち、神に教えられる時、やわらかな心で従っていくことなのです。心が痛む時、素直に神様の前に出ていく祈りを捧げ続けていきたいものです。

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