2011年2月21日月曜日

2月20日説教原稿

2月20日(日)
『神様はあなたを愛しています』ヨハネ3章16−21節 下川羊和牧師

天にいます父なる神様、尊いお名前を賛美いたします。わたしたちは今日もあなたの語りかけを待ち望みます。どうぞお語りください。そして聖霊の助けをもって私たちに真理を悟らせてください。ニコデモを通して私たちにも語られたイエス様のお名前によってお祈りいたします。アーメン

 今日第一に注目すべき言葉は、16節、神は世を愛された。という言葉です。

 それは単に、今日の説教の第一のポイントであるだけでなく、私たちの人生の全てにおいて、第一に信じるべき神の愛です。

 ここから初めていかないと、私たちのすべては暗やみに陥ってしまいます。神の愛は、正しい道のスタートです。今日、改めて私たちは、神の愛を信じることから初めていきましょう。

 しかし、正直に言いまして、この節を読む時に、私自身はいつも違和感を持つものです。

 正しい神が、罪も過ちも持っている世を愛されたというのはどういうことだろう。

 世というのは、私たちの生きているこの世界全てを指しています。人間だけでなく、全宇宙。神様のおつくりになった世界の全てです。しかし、その中で、神の愛に自由な意思を持って応答するのは人間だけですから、世を私たちすべての人間と考えてもよいでしょうが、

 正しい神が、罪も過ちも持っている人間を愛されたという。

 私たちは、自分の考えにとらわれるなら、神様が私たちを愛している神様なのか、私たちを愛していない神様なのか、わからなくなってしまうことがあります。日常の出来事は、私たちを喜ばせもしますし、また悲しませもします。しかし、そういうことで、神様のことが分からなくなってしまってはならないのです。

 なぜなら、一人子をお与えになったほどに、という証拠が、私たちに突きつけられているからです。

 原因と結果をしっかりと心に刻みましょう。

 神の愛は、イエスキリストが地上に生まれる前から、神ご自身の中に存在していました。

 そして、人が罪を犯す前から、人を愛しており、人が罪を犯して神から離れたものとされてからも、変わらずに、人を愛していました。

 神ご自身は、永遠の昔から、変わらず今も、世界のすべてに対して、人類の全てに対して愛、だったのです。

 しかし、罪を犯して、神から離れてしまった人間は、神様がどのようなお方か、分からなくなってしまいました。

 神ご自身が、おられるのかおられないかも分からなくなってしまったというのが、現在の現代の私たちの状況でしょう。神から離れてあまりにも久しいので、神無しに物事を考えることの方が当たり前になってしまっている。

 私たちは、迷い道をさらに迷って、暗やみのどんぞこにいるのだ、そのことに気付かなくてはなりません。そして、聖書の言葉をたよりに、そもそも、私たちは、初めどのような状態にいたのか、今どのような状態にいるのかをわきまえる必要があるのです。

 初めの状態とは、神の愛の中にいたこと。今の状態とは、罪を持って神から離れたものとなったこと、しかし、なお神の愛は私たちに向けられているということです。神の、愛であることは、他の神様の持っておられる本質と同様に、永遠に変わることのない神の本性なのです。

 しかし、神の本性である愛が、分からないものになっている人間に、もう一度伝えられる必要がありました。人が神から離れて神を分からないものになっているからです。

 それで天から、神の一人子が地上にやってくる必要がありました。ご自身、神に等しいお方が、地上の私たちの所に近づいて、神の愛を愛の神を知らせる必要があったのです。

 私たちのニーズであって神様のニーズではありません。ですが、私たちの必要であるにも関わらず、これを満たしたのは神様の方でした。

 なぜですか。神様が私たちを愛しておられたからです。今もなお愛しているからです。そして、私たちは、私たちを愛しておられるお方が、たった一人の唯一の神であるので、この神様の愛を片思いに終わらせてしまってはならないのです。

 神様の愛を、どうしたら信じられるのか、それは神の一人子に注目することによってです。その一人子をお与えになったほどに、と記されているからです。

 イエスキリストを見なければ、私たちの心の中で、神の愛は不確かなものになってしまいます。しかし、イエスキリストを注目するなら、私たちは愛の神を信じ、確信することができるのです。

 毎週礼拝に集うのは、そのためでしょう。毎日聖書を読むのはそのためでしょう。イエスキリストにつながっていなければ、愛の神が不確かなものになってしまうからです。

 今日、第二のポイントに移る前に、第一のポイント、16節の最初のフレーズに「実に」という言葉があることにも注目しておきましょう。

 実に、この言葉には二つの意味があるでしょう。

 事実、本当にその通りだ、という意味と、驚くべきことに、真実にというもう一つの意味です。

 事実、イエスキリストが地上に来られた。聖書が私たちに告げる歴史の事実です。福音書を通して、事実神の御子である方が、地上に来られたということをはっきりと悟らなければ、神の愛は不確かなものになってしまいます。しかし、忠実な聖書記者たちの筆のわざによって、キリストの生涯を、キリストの死と、復活の事実を詳細に確かめることによって、私たちは神の愛を確実なものとすることができるのです。

 そして、これは、驚くべき奇蹟でした。科学は、繰り返し起こる現象について、原因と結果を証明することができますが、一度しか起こらないことについては、証明することも理論づけることもできません。ただ事実を観察することができるのみです。

 わたしたち人間の命がそれであり、これは、永遠の時間の中で、いちどきりしか生じないものなのです。

 そして、キリストが地上に来られたことも、ご自身を神として十字架で死なれたことも、実に驚くべき行動でした。

 なぜ神である方が人間にならなくてはならなかったのですか。なぜキリストは、ご自分を真の神であると主張しつづけて十字架で死ななければならなかったのですか。

 どこにも、普通に考えうる理由はありません。

 イエス様が、死にたくなるような絶望的な人生を歩んでいたとは、誰も考えられないでしょう。人々を愛し、人々に愛され、また人々を助けるイエス様は、誰からも必要とされていました。

 ですが、人間には、イエス様に助けていただく以上に、もっと根源的な必要があったのです。

 私たちが求めもしない、神様との交わりを回復するためです。なぜならそもそも私たちは、永遠に神と共に生きるために、もっともっと祝福された命を生きるように、造られたものだったからです。

 しかし私たちは神無しの人生を選び、神に背を向けた。この罪が解決される必要がありました。

 ケンカをしたなら、どちらかが先にごめんなさいと誤らなくては解決はありません。わたしたちが先にあやまったのではなく、神様が、先に、ゆるしますと言ってくださったのです。神様は愛だからです。

 そして、神様の差し出した和解の手が、地上に生まれたイエスキリストなのです。十字架で、私たちの罪を身代わりに背負って死んだイエス様なのです。

 神に背を向けた私たちの罪の結果は死です。この罪を帳消しにするには、誰かが代わりに命を差し出さなくてはなりません。私たちの身代わりを果たす責任のある人はいるでしょうか。驚くべきことに創造主なる神様が何の必要もないのに、ただ愛のゆえに私たちの身代わりになられたのです。

 罪の代価は支払われました。神様は、愛のゆえに一人子を惜しまなかったのです。イエス様も愛のゆえに、私たちの身代わりとなることを厭わなかったのです。私たちはイエスキリストの十字架に注目するとき、わたしたちを理由無く愛してやまない神様に出会うのです。わたしたちをただ愛のゆえに愛しておられる神様に、キリストの十字架を通して出会うのです。

 今日、第二のポイントを学びましょう。それは何のためか。御子を信じる者が一人として滅びることなく永遠の命を持つためである。

 すでに第一のポイント神の愛の中で、第二のポイントまで語ってしまったような気がします。私たちを愛した神様は、全ての人が永遠のいのちを取り戻すように願っておられる。しかし、それは、御子を信じることによって与えられる。正しい手段を聖書は教えています。

 新改訳聖書は、かぎかっこを15節で終わりにしていますが、16節以降の言葉が、ニコデモに対して語られたイエス様の言葉であると解釈することも可能です。

 16節以降が、より普遍的な真理であるので、福音書記者ヨハネの言葉だと解釈するのが新改訳聖書なのですが、しかし、より普遍的な真理であるからこそ、イエス様ご自身がニコデモに向かって、そして、今日の聖書の読者である私たちに向かって語ったと考えることも可能ではないかと思います。私自身はその方が良いように思います。

 第二のポイント、重要なことは、神の愛を受け取る方法が、正しい方法は一つだけということです。神の愛は、すべての人に向けられたものです。わたしたちは何の恐れもなく神の愛を信じるべきです。誰もが安心してここに飛び込むことが許されています。

 しかし、正しく飛び込む方法は一つだけです。神の愛を受け取る仕方は、若干の緊張が必要です。私たちはここをそれたら失敗するのです。

 どうしてイエスキリストを信じなくてはならないのでしょうか。ここまで学んで来た方はすでに気付いておられる方もいらっしゃると思いますが、イエスキリストが神の愛のあらわれであるからです。

 あなたをゆるします。あなたを愛しているからです。あなたがわたしにとって尊い存在だからです。という言葉が、イエス様そのものだからです。

 聖書は、ここで、適切に、御子を信じる者が、と書き記しています。イエスキリストを信じる、ということで曖昧にしません。

 ナザレの人イエスが、神の御子であるということを信じなければ、神の愛を受け取ることができないからです。愛の神に出会うことはできないからです。

 イエス様は14節15節でご自分のことを人の子と言われました。確かに人としてニコデモの前におり、またやがて人として十字架に上げられるご自分のことを指しているからです。

 しかし、その意味については、ニコデモの目の前にいるわたしが、やがて十字架で死ぬわたしが、神の御子なのだということを知り、信じなければならないとおっしゃられたのです。

 ここで道は二つに分かれます。間違った道を最初にお教えしましょう。ナザレの人イエスは、気の狂った救世主願望に取り憑かれた人物だったので、自分を神だと主張し続けて、ユダヤ人たちの怒りをかって処刑されたのだ。あいつは神でも何でもないただの気違いだ。

 そう考えることも可能です。ただし、イエス様を否定するためには、これくらいに考えないと、自ら十字架へ進まれたイエス様の動機を見いだすことはできないのです。

 ところが、聖書をちゃんと読んでいきますと、到底このお方を気違い呼ばわりすることはできない。愛と力をもって、誠実をもって人の前を歩まれたお方が、愛ゆえに私たちのために死なれたということだけが私たちの目の前に呈示されるのです。

 十字架上のイエス様を見上げたローマの兵士が、この方は真に神の子であったと告白せざるを得なかった、驚きがわたしたちを包み込むのです。そして、わたしたちは、十字架のイエス様を通して、神の愛を確信するのです。

 もはや自分を振り返って神様の愛にふさわしいかふさわしくないか、そんなことを考える必要はありません。十字架の犠牲は、今日も私たちの罪を完全にぬぐい去る聖めなのです。

 十字架に架かられたイエス様の背中の向こうに、私たちのあらゆる汚れが、おしのけられている。私たちに差し出されているのは、両手を広げて私たちを抱き締めようとしておられるイエス様の御手なのです。

 神の愛を受け取る方法は、このイエス様の御手に飛び込むこと。間違ってはなりません。なぜなら愛はここに示されたからです。他にはない。愛とはそのような性質のものです。全ての人に開かれている。しかし、扉は一つです。この真理は愛の内側に存在している本質的なものであることを私たちは悟るものとさせていただきたいと思います。

 第3のポイントは今日は詳細に語らないことにいたします。なぜなら第3のポイントは、第一のポイントと第二のポイントを正確に把握したならば、当然出て来る帰結だからです。

 神は愛である。御子は救い主である、この二つのことを順序正しく理解したならば、17節から21節の言葉は、否定しようのない真理となることがわかると思います。ただしそれは第一のポイント、第二のポイントを正しく理解した上でのことです。

 もし、神の愛であることが分からないなら、先へ進まないことです。イエス様の救い主であることが分からないなら、同様に先へ進まないことです。

 第二のポイントの先は分かれ道だからです。イエスキリストは、たった一人の救い主であって、この方以外に救いはないので、他の道にそれたら、私たちは闇の中に自分を置いてしまうことになるからです。そのことは、充分警告してあまりある、大きな危険、取り返しのつかない過ちになります。なぜでしょう。愛の神のあらわれである救い主イエスキリスト以外に神の愛を受け取る方法は、ないからです。

 最後に21節を読みましょう。私たちが進むべき道が示されています。

 しかし、真理を行う者は光の方に来る。その行いが神にあってなされたことが明らかにされるためである。

 大切なのは、光の方に向かって進むということです。真理を行うか行わないかではなくて、光の方角を選ぶことです。光の方角を選ぶと、その行いは正されて行く、だから私たちは正しい方向を向かなくてはなりません。そして、光の方へ進む私たちは、神にあってことを成し遂げることができるのです。お祈りいたします。

天にいます父なる神様、尊いお名前を心からほめたたえます。今日は、あなたの御言葉のもっともすばらしい一節を学びました。どうぞこの御言葉を素直にそのまま私の心の中に響かせてください。ここに記されたあなたの愛を私たちは今日新しい気持ちで受け取ります。あなたを求めることを知らない私たちを、いつも限りない愛で愛してくださる愛をありがとうございます。どうぞ今日わたしたちはあなたの愛を受け取りましたから、この愛を忘れることなく、愛に答えて生きていくことができますように。地上の人生のあらゆる営みの中で、変わらないあなたの愛を覚えて、隣人に仕え続けていくことができますように。尽きることのない力をくださいますようにお願いいたします。いつも私たちに神様の愛を教えてくださる十字架の主イエスキリストの御名によってお祈りいたします。アーメン


 


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